「瑛九」が追い求めた『レアル』に迫る。
「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」 が東京国立近代美術館にて開催中!


「瑛九(えいきゅう)」、という名の画家がいる。
1911年、九州・宮崎に生まれた画家 杉田秀夫は、何か「キューピー」みたいな思いきり突飛な名前に変えたい、 という思いから、さまざまな案を出しながら検討した結果、この名を名乗ることとなった。作品に署名するときは、「Q Ei」と書かれた。

一体どんな画家だったのだろうかと、この洒落た名前だけでも興味が沸かないだろうか。
日本美術学校で油絵を学んだ杉田秀夫は、16歳頃にはすでに美術雑誌「みづゑ」や「アトリエ」などに美術批評を寄稿したり、写真も試みるなど、自らの表現を模索していった。その中で、「フォト・デッサン」と名付けた、切り抜いたデッサンやさまざまなモノを印画紙に乗せて感光させた独特な写真作品を多数制作している。1936年には、「瑛九」という新しい名を得て、フォト・デッサン集『眠りの理由』で、画壇への鮮烈なデビューを飾った。


美術館 情報サイト アートアジェンダ 『眠りの理由』
展示室内 左:写真《眠りの理由 8》  右:《眠りの理由 7》 1936年
作品右:『眠りの理由』より、1936年、ゼラチン・シルバー・プリント、東京国立近代美術館蔵

40部限定で刊行された、このフォト・デッサン集「眠りの理由」で発表された作品を中心に、瑛九のデビュー前後の1935年から37年に焦点を当てた「瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす」展が、現在、東京国立近代美術館で開催されている。


美術館 情報サイト アートアジェンダ 瑛九 ポートレート
瑛九ポートレート、1936年
東京国立近代美術館蔵
瑛九と親しく交流した画家の山田光春(やまだこうしゅん 1912-1981)は、のちに詳細にわたった瑛九の評伝を書いたことで知られている。今回の東京国立近代美術館での展示は、山田光春が譲り受けた瑛九の作品や書簡(瑛九から山田に宛てた書簡117点、その他170点)が、平成24年に同館にまとめて収蔵されたものをもとに行われている。

フォト・デッサンやドローイング、油彩などの作品のほか、この3年間に瑛九から山田に宛られた手紙10通の現物が展示され、さらに図録には、58通すべての書簡が原文のまま収められている。これらの作品と手紙を合わせて見ていくことで、自らが生きる時代の「レアル」をつかみとろうと苦闘した若き芸術家の姿を浮き彫りにしようとする試みである。

この展覧会に足を運ぶと、展覧会のタイトルとなっている、瑛九が追い求めた「レアル」とは何だったのであろうか、という思いが浮かぶであろう。

美術館 情報サイト アートアジェンダ 瑛九から山田光春への手紙、1935年、東京国立近代美術館蔵
瑛九から山田光春への手紙、
1935年、東京国立近代美術館蔵
1936年に瑛九が発表し、大きな話題を呼んだ「フォト・デッサン」について、評論家たちは、こぞってマン・レイやモホイ=ナジのフォトグラム作品のようである、と他の芸術家を引き合いにだし、瑛九がそれらの芸術家に追随しているかのように取り上げたことに、瑛九は嘆き、幻滅を感じた。そういった批評家たちへの不信感をあらわにした感情が、今回展示されている山田宛の書簡においても、生々しく読み取れる。

「現実を安価に理解して公式的にかたづけて現実を見失っていることと、現実とは断じて同一ではない筈である。」

と雑誌「アトリエ」6月号(1937年)に、批判的に寄稿している。

フォト・デッサンにおいて、マン・レイやモホイ=ナジの影響があったことはまぎれもない事実であったようだが、語るべきところはそういった比較論ではなくて、もっと作品の本質的な部分を徹底的に見つめて、感受した上で、評してほしかったのではないだろうか。

山田光春が著した評伝「瑛九」を読むと、瑛九は、常にあらゆるものごとにおいて、真理を追究しようともがきながら生きていた人であったことがわかる。お互いを思いやる家族との関係性があり、人とのつながりを大切にし、また常にまっすぐに人と向き合おうとした。交友関係は幅広く、後輩たちへの面倒見がよく、病に伏しがちでありながらも、行動力があり、正直に生きようとした瑛九は、人懐こさがあって、人間味にあふれている。

美術館 情報サイト アートアジェンダ 《二人》1935年、油彩・厚紙、東京国立近代美術館蔵
《二人》1935年、油彩・厚紙、東京国立近代美術館蔵
「ラファエロ、コロー、ゴッホ、セザンヌの様な、その時代の大衆―人類―が次の時代の真の人間のための かきおき とした内容の表現でなければ何にもならん。19世紀の、あらゆるぜつぼう的な世紀の中においても、真実をいかに人間は求めたかということをゴッホのひまわりは教えてくれる。人類への信頼はこのことによっておれを明日へさそう。」

1937年に書かれた山田宛の書簡の一部である。先に引用のあった雑誌「アトリエ」6月号に寄稿された『現実について』においても、芸術批判に現われる日本の知性といわれるものへの疑問から始まって、

「元来、知性とは、あらゆる思考の究極にいきつかねば承知できぬ精神をいふのであって、その究極のかなたにある実感を感得するためにあるものだと考えている僕には、日本の文壇、画壇の知識人なるものが何のことやらわからない。
単純な生活人は、それを無意識な生き方の上で感得している。
芸術とは、意識して思考の究極のかなたにある現実を感得することである。」
と評論を寄せている。

「自分の芸術は現実の表現である」と主張したこの文は、彼の書いた評論の中での最も重要なものの一つである、と瑛九の評伝の中で、著者は結んでいる。

繰り返し語られる、“レアル”の日本語である「真の」「真実」「現実」といった言葉は、瑛九の芸術表現、作品の制作に向き合う態度や精神そのものであったと同時に、人間が生きる上で求めるべき命題のような態度であり精神であると、瑛九は捉えていたのではないだろうか。

美術館 情報 アートアジェンダ 《作品》1937年頃、コラージュ、東京国立近代美術館蔵
《作品》1937年頃、コラージュ、
東京国立近代美術館蔵
東京国立近代美術館の展示を観ていると、24歳から26歳ほどの若き芸術家 瑛九は、すでにフォト・デッサンにおいても油彩作品の色彩においても、そのセンスは、日本人離れしているような、西洋的なセンスが感じられる。そのDNAはどこからきたものであろうかと、評伝の中から探ろうとした。

瑛九は、生涯日本を出ることは無かったが、14歳で宮崎の中学を中退して、ひとりで上京し、15歳で日本美術学校洋画科に入学した翌年ごろには、日本語で書かれた美術書はほとんど読みあさり、ひたすら読書にあけくれた日々を送った。“ダビンチ、ミケランジェロ、の逞しさ、崇高さ、深淵さに訳も判らぬままにひかれ、レンブラントの画集を片時もその手から離さぬ”時期もあったようだ。

ゴッホやピカソ、ミレーやマチス、シャガール、ドラクロワなどの画集や書物を読み、また、バルザック、フローベール、ジッドといった作家から科学者ルイ・パスツールについての書物、ベートーベン、シューマンなどの音楽に至るまで、西洋のあらゆる芸術文化から学び、自らの血肉にしようとしていたのではないだろうか。

美術館 情報 アートアジェンダ 《作品》1937年頃、コラージュ、 東京国立近代美術館蔵
《作品》1937年頃、コラージュ、
東京国立近代美術館蔵
それは、学ぶという意識というよりも、渇望であり、「ヨーロッパの精神にゆりうごかされ、たたきつけられたい」、という思いがあった。久保貞次郎の蒐集したヨーロッパの巨匠たちの作品に触れる際には、その優れた精神を痛切に感じられるように、“自己を出しきって”おこうとした。

「ドラクロアからは芸術の本質についての成立をおしえられた。彼は古典について明くわいに書いてゐて、ほとんどが僕が現実から受けた教えと同一であった。」

瑛九は、ヨーロッパの芸術を通じて、普遍的なもの、ゆるぎない本質的なもの、真理をつかみとろうとし続けていた。

最後に、1939年、瑛九28歳頃の山田宛の書簡には、瑛九の人間性があらわれ、また、芸術の持つ意味、人間にとってなぜ芸術が重要であるかという考察には、その答えの糸口が見いだせるのではないか、と考えられる一文があるので、紹介したい。

「人間を“こうてい”する。人間をすべてのものの上に。そこからしか人間のあらゆる思考も認しきもけっして実在はしないのだ。一人の生にみちた人間こそが求められるものなのである。山の絵はすてるほどである。しかしこの時代の人間の見た山の絵がないといふことだ。一人の真の意味の人間は、人間全体のふへんてきな人間性の表現なのである。なぜわれわれが一人の個人にすぎないダビンチにこんなにも心を動かされるのか。バッハに、ゲイテに、西郷南洲に。彼等は人間をひとしく第一において思考し、行動し、表現したのである。・・・」

参考文献:
「瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす」カタログ 東京国立近代美術館
「瑛九 評伝と作品」著者 山田光春




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